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文章にまとめる効用

 僕は一時期、mixiで日記をたくさん書いていたけれど、ある時期からもっぱらTwitterしか使わなくなってしまった。何となく気づいていたけれど、やっぱり140字のTwitterだけしか使っていないと、書く力というのかな、そういう能力がごっそり落ちてしまった。

 書く力、つまり、文章にまとめる能力、これが落ちてしまうことで、自分の頭で何事かをまとめる能力がかなり落ちてしまったように思う。頭の中にあること、紙に書くなり、PCでテキストにするなり、なんでもいいから体から「外部化」することというのはとても大切なことだと、“自分がある能力を失った”と感じてから特に思うようになった。就活でエントリーなんか書いていて特に思いましたね、あ、俺文章力ねーなって。

 ところで、何でもそうだと思うけど、体の中に溜めておくのは、あんまり良い結果をもたらさない。まぁこれはオカルトなんだけど。

 文章にまとめる効用って、なんだろう?

 文章として「外部化」なんかしなくたって、人間は自分の頭で結構複雑に論理的に物事を考えている。だけど、そのまま放置というか、頭の中だけにそのロジックの流れを置いておくと、時間経過とともに複雑なロジックがものすごい数、沈殿して地層みたいになって、もはや、ある一瞬だけは自分に明瞭に見えたロジックも、その軌跡さえも全くみえなくなってしまうように思う。

 ロジックをより正確にたどるために、僕たちは、文章を残す必要がある。きっと、頭の中にあるロジックはもっと複雑なんだろうけど、文章にできる限界で僕たちはロジックの軌跡を残しておいた方がいい。そういうことをやっていると、普段、目の前に、紙とペンとPCがなくっても、素早くより的確で明快なロジックを展開することができるっていう逆説的な効用も、またあるでしょうし。

 複雑なものを正確に複雑さを保ちながら表現することもとても重要なことだけれど、明快な表現というのも、同時に重要だと思います。逆に明快な表現に甘えて、複雑な表現を一蹴するような価値観も、この社会に生きていて僕が散見するものだけれど、(いわく、「分かりやすく表現できることが頭がいい(それ以外は認めない)」。高校生がドヤッっと言うなら、これも良いかもしれけれど。。)これは良くない効用がありすぎると思う。悪しき単純化というか、悪しき平準化というか。

 話が逸れましたが、文章にまとめる効用ってあると思うんです。っていうことで、ブログも書き始めた訳なんですよね、実は。失われた文章を明快にまとめる能力というのは復活するのかなw

 乞うご期待。